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応仁の乱
戦争応仁の乱
年月日応仁元年(1467年)- 文明9年(1477年
場所京都
結果:東軍の勝利
交戦勢力
東軍 西軍
指揮官
細川勝元 山名持豊
戦力
16万(諸説あり) 11万(諸説あり)
損害
不明 不明

応仁の乱(おうにんのらん)とは室町時代の8代将軍足利義政のときに起こった内乱である。室町幕府管領細川勝元と山名持豊(出家して山名宗全)らの有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大、影響し戦国時代に突入するきっかけとなった[1]応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。もともとは、守護大名・畠山氏内部の家督争いへの将軍家の調停失敗に端を発している。

経過[編集]

将軍義政と義視[編集]

室町幕府は、南北朝時代の混乱や有力守護大名による反乱が収束した将軍足利義満足利義持の代に将軍(室町殿)を推戴する有力守護の連合体として宿老政治が確立していた。籤引きによって選ばれた6代将軍の足利義教が専制政治をしいて嘉吉元年(1441年)に赤松満祐に誘殺されると(嘉吉の乱)、政権にほころびが見え始める。7代将軍は義教の嫡子・足利義勝が9歳で継いだが1年足らずのうちに急逝し、義勝の次弟である義政が管領の畠山持国らに推挙され8歳で将軍職を継承した。

義政は母・日野重子や愛妾・今参局らに囲まれ、家宰伊勢貞親季瓊真蘂等の側近の強い影響を受けて気まぐれな文化人に成長した。義政は守護大名を統率する覇気に乏しく、もっぱら茶・作庭・猿楽などに没頭し幕政は実力者の管領家の勝元・四職家の宗全、正室の日野富子らに左右されていた。

打続く土一揆や政治的混乱に倦んだ義政は将軍を引退して隠遁生活を送ることを夢見るようになり、それは長禄・寛正の飢饉にも対策を施さない程になっていた。義政は29歳になって、富子や側室との間に後継男子がないことを理由に将軍職を実弟の浄土寺門跡義尋に譲って隠居することを思い立った。禅譲を持ちかけられた義尋はまだ若い義政に後継男子誕生の可能性があることを考え、将軍職就任の要請を固辞し続けた。しかし、義政が「今後男子が生まれても僧門に入れ、家督を継承させることはない」と起請文まで認めて再三将軍職就任を説得したことから寛正5年11月26日1464年12月24日)、義尋は意を決して還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。

文正の政変[編集]

文正元年(1466年)7月、突然義政は側近の伊勢貞親季瓊真蘂らの進言で斯波武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。義廉と縁戚関係にあった宗全は一色義直土岐成頼らとともに義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放を図ったことから義視の後見人である勝元は宗全と協力して貞親を近江に追放、このとき政変に巻き込まれた季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。なお、義政時代の斯波武衛家の家督騒動については武衛騒動も参照。

勝元と宗全の対立[編集]

ファイル:OninNoRanMarker.jpg
「応仁の乱勃発地」の石碑(京都市上京区御霊前通烏丸東入、上御霊神社鳥居前)

嘉吉の乱鎮圧に功労のあった宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減を図って自分の娘婿である赤松政則加賀国守護職に取立てたことから両者は激しく対立するようになっていた。文正の政変で協力した2人であったがそれぞれ守護大名の家督争いに深く関わっていたため、強烈に対立する2人でもあった。

寛正6年11月23日1465年12月11日)、義政と富子との間に足利義尚(のち義煕)が誕生すると実子・義尚の将軍職擁立を切望する富子は宗全に接近し、義視の将軍職就任を阻止しようと暗躍した。義視の後見人である勝元と義尚を押す宗全の対立は激化し将軍家の家督争いは全国の守護大名を勝元派と宗全派に二分する事態となり、衝突は避け難いものになっていった。

御霊合戦[編集]

この頃、三管領の1つ・畠山家では畠山義就とその従兄弟の畠山政長との家督継承権をめぐる闘争が激化していた。これに、将軍義政の気紛れが油を注いだ。

康正元年(1455年)頃、畠山家総領であった義就は政長と手を組んだ細川勝元の策謀によって義政から追放され、政長が畠山家総領を継承していた。義就は宗全を頼って復権を願い出ていた。

文正2年1月2日1467年2月6日)、宗全に懐柔された義政が、時管領職にあった政長や勝元に断ることなく、将軍邸の花の御所(室町第)に義就を招いてこれを赦免した。追い討ちをかけるように義政は正月恒例の管領邸への「お成り」を中止し、3日後に義就が宗全邸で開いた酒宴に出席した。その席で義政は義就の畠山家総領を認め、政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。

政長は反発して管領を辞任したが、後任に山名派の斯波義廉が就任した。勝元は義政から義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して宗全に情報を漏らしたため失敗した。

政局を有利に運んだ宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と花の御所を囲み義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放は認めなかったが、諸大名が一方に加担しないことを条件に義就による政長への攻撃を認めた。義政から廃嫡され賊軍扱いされた政長は勝元に援軍を求めたが、勝元は後日の反撃を期してこれを断った。

1月18日2月22日)、政長は無防備であった自邸に火を放つと兵を率いて上御霊社(京都市上京区)に陣を敷いた。義政は畠山の私闘への関わりを禁じるが、宗全は後土御門天皇後花園上皇らを室町亭に避難させると義就に加勢した。勝元は義政の命を守って沈黙を続けた。

御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就は釈迦堂から出兵して政長を攻撃し斯波義廉、山名政豊朝倉孝景らも加勢した。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走した。勝元邸に匿われたと言われる。御霊合戦は畠山の私闘とされたが、宗全が細川派を排斥しようとした事実上のクーデターであった。

戦火の拡大[編集]

御霊合戦の後、勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させた。また勝元の娘婿である赤松政則が以前は赤松氏が守護を務めていた播磨へ侵攻し、山名氏から守護職を奪還した。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。5月には武田信賢細川成之らが若狭の一色氏の領地へ侵攻し、都でも一色義直の邸や西軍諸将の屋敷を襲撃した。義敏は尾張から遠江へ侵攻した。4月に足利義視が調停を試みている。

5月、勝元は北陸に落ちていた政長を含む全国の同盟者に呼びかける一方、花の御所を押さえ戦火から保護するという名目で将軍らを確保し、天皇・上皇を室町亭に迎えた。勝元は自邸今出川邸に本陣を置くと6月には義政に要請して牙旗を授与され、官軍の体裁を整えた。片や宗全は5月に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。

京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、「東軍」が優位を占めていた。「西軍」は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していた。このため西軍には、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼土岐成頼のように成り行きで参加したものも多く、その統率には不安が残されていた。

一方、関東地方や東北、九州南部などの地域は既に中央の統制から離れて各地域で有力武家間の大規模な紛争が発生しており、中央の大乱とは別に戦乱状態に突入していた(関東については享徳の乱を参照のこと)。

戦況の変遷と膠着化[編集]

開戦当初は東軍が優勢であった。内裏や花の御所周辺から西軍を駆逐して皇室と将軍義政を確保し義政の支持を受けて「官軍」と号したことに加え、細川氏と支持者の領国が畿内周辺に集中していたことが有利に働いたからである。しかし、月には細川領の丹波国を制圧した山名軍8万が上洛し、8月には周防から大内政弘が四国の河野通春ら7ヶ国の軍勢と水軍を率いて入京したため西軍が勢力を回復した。激戦となった相国寺の戦いは両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。

応仁元年8月29日9月27日)、突然、義視が東軍を出奔して伊勢国の北畠教具を頼った。義視の出奔は武衛騒動と文正の政変で追放されていた伊勢貞親が義政に呼び戻されて復権したことが一因とされているが、このころ義政や後見人の勝元が義視の廃嫡と義尚の将軍職就任に傾いたことも大きな原因であったと見られている。約束に反して将軍職を譲らない義政と義視の将軍就任のために積極的に動かない後見人の勝元、富子に見守られ僧門に入ることもなく成長して行く義尚。義視は、義尚が誕生した時より幕府に身の置き場所をなくしていたのである。

その後、しばらく伊勢国に滞在した義視は勝元や義政に説得されて東軍に帰陣するが、再度出奔して比叡山に登った。義尚擁立に転じた勝元が、義視を御所から事実上追放したのである。11月23日([12月19日]])、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉ると幕府の体裁を整えて東軍に対抗した。西軍は後南朝勢力にも協力を呼びかけた。

対立構図のねじれ、自己の利に従って離散集合をくり返す諸勢力。このような状況下で身を賭して戦いに貢献しようとする者は少なく、東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。東軍の足軽大将骨皮道賢が後方攪乱としてゲリラ戦を試みて名を上げたが彼らは盗賊や凶悪人を多く含んだ無法者の集団に近く、戦局を打開することはできなかった。

1469年元年(1469年)になると大内氏の重臣で文武両道の名将として知られた益田兼堯石見国で離反し、九州の大友親繁少弐頼忠とともに大内教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻した。この動きは鎮圧されたものの、文明3年(1471年)には守護代でありながら西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政自身による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返った。

長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。こうして東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになる。

文明5年(1473年)になると3月18日4月15日)に宗全が、5月11日6月6日)に勝元が相次いで死去し、12月19日1474年1月7日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。文明6年4月3日4月19日)、宗全の子山名政豊と勝元の子細川政元の間に和睦が成立した。

その後も東軍は畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘を中心に惰性的な小競り合いを続けていたが文明9年11月11日1477年12月16日)に大内政弘が周防国に撤収したことによって西軍は事実上解体し、京都での戦闘は収束した。その9日後、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ大乱の幕が降ろされた。

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いたにも関わらず主だった将が戦死することもなく勝敗もつかなかった。惰性的に争いを続けてきた挙句、守護大名たちが獲得を目指していた幕府権力そのものが権威を失墜させてしまい獲得するものは何もなかったのである。

守護大名・豪族の動向[編集]

応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲は奥羽・関東・越後・甲斐を除くほぼ全国に広がっていった。ここでは東西両軍に参加した守護大名や豪族を列挙するが、時期によっては去就が異なる場合がある。主に応仁4年(1470年)頃の状況に照らした去就を記す(参考資料:『鎌倉・室町人名辞典』・『戦国人名辞典』)。

東軍[編集]

守護大名[編集]

豪族[編集]

西軍[編集]

守護大名[編集]

豪族[編集]

社会の変化[編集]

応仁の乱は将軍や守護大名の没落を促進し、守護代であった朝倉孝景が守護大名の地位を得たことに象徴されるように真の実力者の身分上昇をもたらした。下克上は全国に拡散され、日本は戦国時代に向かうことになる。

残存していた荘園制度等の旧制度が急速に崩壊し始めると、新しい価値観を身につけた勢力が登場した。応仁の乱終了後も政長と義就は山城国で戦い続けていたが、度重なる戦乱に民衆は国人を中心にして団結し勝元の後継者であった政元の後ろ盾も得て、山城国一揆を起して両派を国外に退去させた。加賀国においては、本願寺門徒が富樫政親を追った(加賀一向一揆)。これは、旧体制に属さない新勢力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった。

旧勢力の没落と新興勢力の台頭[編集]

室町時代をつらぬくキーワードは、「旧勢力の没落と新興勢力の台頭」である。鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、生産力向上に伴い力をつけてきた国人・商人・農民などによって、その既得権益を侵食され没落の一途をたどっていた。

また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は3代将軍・義満と6代将軍・義教のときを除いて成立当初から将軍の権力基盤は脆弱であり、同じように守護大名も台頭する守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。

こうした環境は当時、長子による家督権継承が完全に確立されていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった[2]

応仁の乱後の京都復興[編集]

京都で戦後という場合の「戦」とはこの乱を指す事が多い。応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の山科宇治大津奈良といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されたものの都市の荒廃による環境悪化によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したこと、加えて在京していた守護大名やその家臣達(都市消費者として一定の役割を果たしていた)が領国の政情不安のために帰国したまま帰ってこなかったこともあり、京都の再建は順調とは言えなかった。こうした災害を理由とした改元長享延徳明応)が相次いでいるのもそれを裏付けていると言える。また町衆主導によって行われたと評価されてきた明応9年(1500年)の祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りであったことを考えると、逆に当時の社会不安の反映が祇園祭再興を促したという側面も考えられるのである[3]。また、当時町衆における法華宗受容も社会不安からくる信仰心の高まりと関連づけられる。

それでも明応7年(1498年)頃より京都の住民に対する地子銭徴収が次第に増加していったこと、永正5年(1508年)以後の酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事からこの時期に京都の人口回復が軌道に乗り出したと考えられ、明応9年(1500年)の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられている。

脚注[編集]

  1. 応仁の乱以後を「戦国時代」とするのが従来からの説である。しかし応仁の乱以降、室町幕府が衰退しつつも影響力が一応維持されていたと考えられている。このため、明応の政変明応2年(1493年))以後を戦国時代とする説もある。
  2. 男子長子による家督相続は豊臣秀吉天下統一以降に制度化したもので、江戸幕藩体制の中で確立し明治の旧民法で法制化され戦後の民法改正まで継続したものである。
  3. また室町幕府も明応9年(1500年)をはじめ、以後の祇園祭に度々介入して主導権の回復を図り実際に戦国時代初頭には幕府の命令による祇園祭の延期や年2度開催が度々行われている。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられている。

参考文献[編集]

  • 鈴木良一 『応仁の乱』(岩波新書、昭和48年(1973年)) ISBN 4004131006
  • 小川信 『山名宗全と細川勝元』(新人物往来社、平成6年(1994年)) ISBN 4404021062
  • 笠原一男 『室町幕府と応仁の乱』
  • 永島福太郎 『応仁の乱』
  • 榊山潤 『応仁の大乱』
  • 早島大祐 『首都の経済と室町幕府』(吉川弘文館、平成18年(2008年))ISBN 4642028587

関連項目[編集]

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